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プロフィール

浅野 哲(あさの さとし)

衆議院茨城第5区

誕生日

1982年 9月25日生まれ( 歳)

略歴

青山学院大学大学院 修了(理学修士)
(株)日立製作所 日立研究所 研究員
日立製作所労働組合 研究所支部 執行委員
衆議院議員 大畠章宏 秘書

家族

妻、子1人

居住地

茨城県日立市

選挙区

衆議院茨城第5区

趣味

球技(ゴルフ、テニス、サッカー)、
読書、音楽鑑賞

好きな言葉

基本と正道。
(日立製作所)

— If you can dream it, you can do it.
夢見ることができれば、それは実現できる。
(ウォルト・ディズニー)

— Simplicity is the ultimate sophistication.
シンプルさは究極の洗練である。
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

幼少期

"前向きさ""粘り強さ"を身につけた少年時代

小学校を卒業するまでの間は、保育園や小学校という小さな社会の中で、自分の立ち位置を確かめながら社会に入り込むための力を養う期間だと言われている。私、浅野さとしは、社会に入り込むための力として、「粘り強さ」と「前向きな性格」をこの頃に身につけた。

1982年9月25日、東京都八王子市生まれ。両親は二人とも公務員で共働きだったため家にいる事は少なく、12歳上の姉も学業に忙しかった。そのため、幼い頃はおばあちゃん子だった。幼い頃の記憶でよく思い出すのは、祖母と何度も何度も歩いた保育園までの長い階段。何段あったかは忘れたが、私はよく道端にいる昆虫やトカゲなどの小さな動物を追いかけまわし、時間を忘れて観察した。そのような時、いつも祖母は何も言わずに私を待っていてくれた。

今も好きなサッカーはこの頃から始めた。サッカーは高校まで続けたが、小学校と中学校の時の顧問の先生がとにかく厳しかった。練習では、足の感覚がなくなるまで走らされ、顧問の先生の指示に従わなかった時は容赦ない指導を受けた。気持ち悪くなるまで走らされた回数は数えきれない。でも、この時身につけた粘り強さは、自分を支える糧となっている。


少年時代、必死に練習をこなしたサッカーは、
自分を支える糧となっている
(上段左から4番目が本人)

小学校では6年間いじめられ役だった。しかし、決していじめ役の子の思い通りにならない「粘り強いいじめられ役」だったことには自信をもっている。仲間はずれにされたら、仲間に入れてくれるまでついていった。物を隠された時は、見つかるまで探し続けた。悪口を言われたら、相手が言わなくなるまで訂正し続けた。小学校を卒業する頃には、最後は誰も私をいじめなくなった。気が付けば、みんな仲のいい友達になっていた。

青年期

常に「目標」を持つことの大切さを知る

高校に入る頃、どうしてもオートバイを手に入れたくなった。しかし、お目当てのオートバイは総額ウン十万円。当然そんなお金はない。でも簡単に諦める訳にはいかない。

部活後、ある物流企業の倉庫仕分けのアルバイトを始めた。18時から22時まで、倉庫内で200kg以上にもなるコンテナのトラック積み降ろし作業である。これを週5日、3ヵ月継続した。憧れのオートバイを手に入れたいという思いは、何よりも強いものだった。

サッカー部の練習後、部活でクタクタに疲れた体で送迎バスに乗り込むと、すぐにでも「逃げ出したい」という思いに襲われる。それでも、「何が何でも憧れのバイクを手に入れる」という気持ちで続けた。結局3ヵ月後に続けていた高校生は、私ともう1人だけだった。苦しみながらも、耐え抜いて手に入れたお給料は約15万円。それを頭金にバイクを購入した。

私は幼少期から研究者になるという「目標」があった。高校2年の時、ハワイのマウナケア山頂にある日本のすばる望遠鏡を見学した。山頂から見た星空の素晴らしさに身もだえするほど感動し、大学では宇宙に関する研究をしようと決意した。その後、人工衛星に搭載するセンサー装置の研究を行ない、その経験を日立製作所で担当した自動車向けセンサー製品の研究開発に活かすことができた。また、日立製作所に入らなければ、今こうして政治の道を歩む事はなかったかもしれない。人生とはどこにどの様なチャンスが潜んでいるか分からない。ただ、一つ言えることは「目標」に向かって努力してこなければ、そんなチャンスは得られなかったということだ。

もう一つ、私の両親は、中学卒業以降、ほとんど私の行動に口出しをしなかった。当時は、諦められたのかと考えた事もあったが、今考えてみると、それは子どもの事を信じて見守るという親ならではの愛情だったのだと思う。

「目標」に向け努力する私を見守ってくれた両親に心から感謝したい。

技術者時代

三現主義(現場・現物・現実)へのこだわり

「三現主義」は私の行動規範の中でも最も重要なものの1つである。日立製作所に入社して3年目の秋。自分の担当製品の次世代モデル開発を担当することになった。それまでは現行製品を改良するための地道な試験と分析の日々。もっと大きなテーマに挑戦したいと思っていた私は、「既成概念にとらわれない自由な発想でやって欲しい!」と上司から伝えられた時、嬉しさと期待に胸が膨らみ、武者震いがした。しかし、次世代モデルの開発が軌道に乗り始めた頃、原因不明の誤動作が発生した。しかも、その原因が分からず、何をやっても防止できなかった。そしてただ時間だけが過ぎていった。

困り果てた私は、製品の試験現場にいる先輩の元を訪ね、相談した。返ってきたのは「必ず原因はある。全ての条件で試せ。何が起きているのかを浅野君が理解できるまでだ!」という一言だった。その一言を聞いた時、無意識に甘えていた自分を心底悔しく思った。私はそれから開発チームの同僚の助けを得て、現物を使って延べ1,000時間以上にも及ぶ実験と分析を行なった。最終的には、製品内のある特定の2カ所の間に温度差ができてしまうと誤動作が起きるという事実(現実)が分かり、対策を打つことができた。

それ以来、製品の誤動作も、社会の課題も、人の悩みでさえも、物事には必ず理由があるというのが私の考え方の核になった。その理由を知るために、三現主義を重んじている。その理由が科学的なのか感情的なのかに依らず、次のアクションを選ぶ際に必ず活かすことができる。

私は、日本の国の実体は私たちが住んでいる地域の中にあり、私たちの生活そのものであると考えている。だからこそ私は地域(現場)に足を運び、そこにいる人・そこにある仕事(現物)を実際に見て、聞いて、触って、物事の本質(現実)を理解することにこだわっていきたい。

組合役員時代

「対話」の大切さを学ぶ

「単刀直入に言うが、浅野、組合で一緒に働かないか」

入社7年目の夏、私は突然組合の分会長に呼ばれた。正直、何がなんだかわからないが、選ばれたのなら挑戦してみるか。これが私の組合活動の始まりだった。

「浅野、今度の休み明けまでにこれを読んで頭にいれておけよ」

組合での仕事初日、分会長から渡されたのは「労働協約書」だった。会社と組合における労働条件の取り決めを記したバイブルである。今までは自分の研究に必要な知識習得のため、寝る間も惜しんで文献を読みあさった。組合役員になってからは、組合員からの相談に応えるため、擦り切れるほど労働協約書を読みふけった。

組合の仕事を始め、すぐに厳しさと難しさを痛感した。とにかく組合員からの相談の多さに戸惑った。相談される内容も人間関係・キャリア相談・金銭問題と様々だが、特に人間関係に関わることが多かった。入社してからの私は、仕事や人間関係で悩むこともなく、恵まれた環境で会社生活を送ってきたが、職場のみんながそれぞれに悩みや問題を抱えながら働いている現実を見たとき、自分の視野の狭さを知った。

ある日、一人の組合員から相談を受けた。その人は職場の人間関係で悩んでいた。私は何とか前向きに頑張ってもらおうと説得したが、当時、私が持っていた考え方や短い組合経験からではその人の心を動かすことができなかった。結局、その人は仕事を辞めてしまった。困っている人を前に何もできなかった自分の無力さに涙が込み上げた。そんな時、分会長から「もっともっと職場に足を運べ。組合員の立場にたって対話しろ」と励まされた。その時初めて私は、人の心を動かすための「対話」こそが組合役員にとって重要なことを実感した。それ以来、私は毎日職場に足を運ぶようになった。組合員との対話が増えたことで、誰よりも組合員から相談されるようになった。

私は、組合役員時代に経験したあの悔しい思いをバネにして、政治の場でも対話を重視した姿勢を貫いていきたい。

決断・1

突然の通知

「将来は日立グループのセンシング技術を牽引してほしい。浅野君に期待しているよ。」

組合の役員任期が終わろうとしていたある日、上長から何度も言われた言葉を思い出しながら私の胸は躍っていた。その頃の私は、役員として最後の定期大会の準備をしていた。任期中の活動を振り返り、良い仲間と出会えたことに感謝しつつ、1つひとつの活動経過を議案書にまとめていく作業をしていた。

ある日の午後、分会長に呼ばれた。普段は穏やかな分会長の表情が明らかに硬い。「今から少しいいかな。浅野君に会いに来ている人がいる。」「...わかりました。今行きます。」来客用の応接室まで行き部屋に入ると、日立労組本部の中央副執行委員長が座っていた。穏やかな表情で笑っていた。私はやや緊張しながら席についた。

副委員長はゆっくりと口を開いた。「大畠議員の後継として国政に挑戦してみないか?」その言葉は衝撃というほかなかった。話を聞き終えた私は、鳥肌が立ち、背中に汗が噴き出すのを感じた。実は、大畠議員が後継者を探しているという噂は職場でも聞いたことがあった。ただ、それが自分だとは...。まさに青天の霹靂であった。

瞬く間に、私の頭の中は疑問と不安で埋め尽くされた。「なぜ、自分なんだ?」「もっと優秀で経験豊富な人がいるはずだ」「これから、また研究をやりたいんだ」「そもそも、政治家になって何をしろというんだ」不器用な私は、浮かんだ疑問をそのまま副委員長にぶつけた。副委員長は1つひとつ時間をかけて丁寧に回答してくれた。しかし、判断するにはまだまだ時間も材料も足りない。副委員長とは再び会うことを約束して最初の面談を終えた。自席に戻るまでの間、家族の事が頭から離れなかった。

決断・2

挑戦したい想いと家族の将来の間で苦悩

「国政に挑戦してみないか?」この問い掛けにどう応えるべきか、私はもがいていた。元来、高い壁ほど乗り越えたくなる性格だった私は、これまでの人生でも、簡単な道と難しい道があったら必ず難しい道を選んできた。本来の自分は「挑戦したい」と言っている。しかし、夫としての自分、父親としての自分は、必死にブレーキをかけている。

相談できる相手が少なかった私は真っ先に妻へ相談した。混乱の渦中にいた私とは対照的に、妻は冷静だった。「分かった。それであなたはやりたいの?やりたくないの?本当に大事なのはそこだよ...。」

私は、即答できなかった自分を情けなくも思ったが、妻の一言にハッとさせられた。

人生の選択ともなる決断であることから、時を同じくして両親にも相談していた。国家公務員として働いていた両親は、国会議員(公人)に挑戦、そして議員活動を行なうことの大変さを心配しながらも「人様に期待されて、人様の役に立てるのは有り難いことだ」と背中を押してくれた。

約1ヵ月の間に、副委員長や職場上長と数えきれないほどの面談を重ね、全員が私の判断を尊重してくれると言ってくれた。しかし、自分の判断が妻や子どもの生活、今後の人生、そして自職場を中心とする会社関係者に大きく影響を与えてしまうかもしれない。そのあまりの重圧に私は押しつぶされそうになっていた。

張り詰めた状態のまま1ヵ月が経った。普段職場では、みんなの前で悩んでいる姿は見せられない。私もできる限り人前では気丈に振る舞うよう平常心を保つことで精一杯だった。ある時、分会長に自分の率直な思いを伝えた。「分会長... 自分はできるなら挑戦してみたい。でも、確実に「当選」できるのか? 仕事を失うかもしれない。そして家族を苦しめることにも...。そのことを考えると怖い。いっそ断って楽になりたい...。でも、それは自分の本心じゃない...。」その時、分会長はただ黙って聞いてくれた。

決断・3

私に決断させた仲間の信頼と家族の絆

国政へ挑戦したい思いはあるが、踏み出せなかった1ヵ月が過ぎた。そんな私に決断させたのは仲間の信頼と家族の絆だった。

「俺たちを信じろ!」

それは短いながらも、力強いメッセージだった。色々な不安があるだろう。未知の世界に飛び込む怖さもあるだろう。でも、俺たち職場の仲間を信じて欲しい。...そんな想いが込められたものだった。そして副委員長は、まっすぐに私を見ながら言った。

「浅野、俺を信じろ...。そして、浅野を支えようとしている仲間のみんなを信じてくれ!!」

その眼には、渾身の力が込められていた。私の心は波立ち、体が熱くなるのを感じた。自分がどれ程多くの仲間の想いを預かるのか、そして、自分を必要としてくれる人がいるということがどれ程幸せなことか認識させられた。私が、応援してくれる仲間のために自分の人生をかけて、国政に挑戦したい、と心を決めた瞬間だった。

間もなくして、改めて自分の気持ちを妻に伝えた。

妻は少しの沈黙の後、口を開いた。「あなたが決めた道なら、どんな道でも私たちはついていくよ。家族で頑張ろう。」妻はこの1ヵ月余り、私の話をずっと静かに聞いてくれた。妻が発したその言葉には、今でも心から感謝せずにはいられない。

そして私は、応援してくれる職場の仲間や家族、世の中の人々の未来のために国政に挑戦しようとあらためて決意した。

その夜、子どもを寝かしつけながら、私は子どもに言った。

「パパ、お仕事が変わるんだ。みんなが住んでいる日本を良くするお仕事だよ。」

すると子どもは「じゃあ、パパがお仕事すると、みんなが喜ぶね!」と応援してくれた。

そうだ。その通りだ。もう、私の心に迷いはなかった。

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